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誰かの場所の複数

残念な感じです

長渕剛論について

杉田俊介さんの書いた長渕剛論がつい最近出版された。すでに重刷も決定して、著者の杉田さん御本人が「自分の本の中では桁一つ違う」と呟いたように、売れている。めでたいことだと思う。おれも凄く嬉しい。

おれは5年くらい前に、1度だけ杉田さんにお目にかかっていて、以降もネット上でおれから一方的にリプライを送りつけたり、おれが前やっていたブログのエントリを杉田さんがツイッターで呟いたりしてくれた事があった。おれはツイッターを生活の愚痴を記す場として使ってるけど、杉田さんはそういう使い方をされてないから、別におれをフォローする必要とか無いんだけど、フォロー仕返してくれていて、あー、覚えてくれてるんだな、ありがたいな、と。で、吉祥寺のエクセルシオールで朝からビール飲んで出来上がったそのままのノリで杉田さんに「売れてるみたいですね、良かったです、そのうち買います」ってリプを送ったら、「送るので、住所をDMかなんかで教えてください」とリプを頂いて、焦ってしまった。

わざわざおれみたいな奴に本を送るメリットなんて何もねぇぞ、とか、いつもカネ無いカネ無いツイッターで愚痴ばかり呟いてるから気を遣わせてしまったのでは、とか、いやでも送ってくれるって言ってくれてるんだから送っていただいた方が失礼無いのでは、とか思考をループさせまくった結果、エクセルシオールを飛び出してBOOKSルーエで「長渕剛の本探してるんすけど、売ってないすか」って店員さんに尋ねて購入して、写真撮って杉田さんにリプを送りつけるっていうテンパりっぷりを披露した。

中華料理屋からサイゼへ流れてハシゴ酒をキメまくりながら、熟読して読了して家帰って寝落ちしてさっき起きた。夜勤7連勤を終えてから酒の飲み過ぎで身体のダメージすごい。常時眠いし。あとカネ遣いがすげぇ荒くなってて、働かない方が良かったのでは・・・ってなってる。6日には友人のライブ見に行く約束しちゃって今月も貯金が上手く出来ない。来月からは住民税が襲ってくるのにね。

長渕剛論について、というタイトルで書き出してしまったので、それっぽい事を書く。買ってから気がついたんだけど、おれは実は杉田さんの単著をカネを出して買った事が無くて、立ち読みばかりで済ませてきたので、送って貰ってたら後悔するところだった。おれは杉田さんのファンなのだ。しかし、あの長渕剛だ。おれが長渕剛について書かれた本を購入する日が来るなんて、信じられない。

正直に書けば、杉田さんが長渕剛の音楽を愛好していて、長渕剛について何かを書いている、という情報を目にするたびに、抵抗を感じていた。おれが、長渕剛という男と音楽に対して、非常に冷笑的な眼差しを向けているからだ。

杉田さん、いや、長渕はキツいっすわ・・・そんな気持ちは確かにあった。この文章を書いている今も、その気持ちが消えているとは言い難い。おれは文章を書く時に音楽を流す人間なのだけど、長渕の音源をYouTubeで再生しても、恥ずかしいしキツいし聴いていられない。アルバムを1枚聞き込む事は、多分今のおれには出来ないし、したくない。趣味の問題なのかもしれないし、もっと根の深いの問魂題なのかもしれない。わからない。だから、おれにとって、杉田さんが書いた長渕剛論を読むと言うことは、長渕剛と向き合うと言うよりも、「おれの人生を救ってくれた文章を書いた一人」である、杉田さんが長渕剛に自分の人生をこすりつけていく様を、見つめるための作業だったような気がする。

どうしても、こういうことを書くときに自分語りになってしまう癖が抜けないのだけど、おれもおれの中の男性性や愛国心というものに、矛盾を抱えることが多い人間だ。

本書の後半に掲載された対話の中で、長渕は杉田さんに「人間の暴力とはどのような物ですか?」と尋ねられたときにこう答えている。「これまで生きてきた中で、そもそも僕自身には、僕が考える意味での暴力を振るったことはまったくなかった。そう考えています」と。その言葉の真意は、本書を買うか立ち読みするか借りるかして掴んで欲しいのだけど、おれ自身は、その言葉に強烈な抵抗と、異常な羨ましさを感じた。

おれは自分の人生の中で、おれが規定する暴力を男女関係なく他者に向かって行使をしたことがある。そして、杉田さんも、自身の人生の中で他者に暴力を行使したことがあると認識をしているはずだ。

何なんだろう、この男は。不思議な男だ。それが本気の言葉であることは、疑いようが無い。おれは暴力を繰り返してきて33年間生きているけれど、長渕剛はそうではないのか?その差は一体何なのだ?どう見つめれば良いのか、今もわからないでいる。わからないから、もう少しだけおれも長渕に寄り添ってみる。長渕は中学1年生の頃、水泳の授業で自分の貧相な肉体を同級生や教師に笑われたことに強烈なコンプレックスを抱えたという。これは、おれも似たような経験がある。おれは全身の体毛が以上に濃くて、中学生の頃には胸や腹を毛が覆い尽くすようになってしまった。同級生の嘲笑は未だに耳にこびりついているし、人前で裸になりたくない、という長渕の抱えたコンプレックスを共有することが出来る。しかし、おれはダイエットは別として、特に肉体を鍛え上げたいとは思わない。なぜ、あそこまで過剰に身体を鍛え上げられることが出来るのか。何が彼を突き動かしているのか。長渕の歌もそうだ。過剰すぎる。

今、長渕が「命を預けられる程信頼している」という、元格闘家の三崎和雄も、現役の時は過剰なファイターだった。黒光りした肉体、マッドカプセルマーケッツの音楽に身体を揺らしながら拳を振り回すエントランス、神風と文字が縫い込まれたベストを着こなし、セコンドにも日の丸の旗を振らせ、試合に勝った後のお決まりは「日本人が強い事」を叫ぶマイクパフォーマンスだった。公務執行妨害で逮捕された過去もあり、長渕剛が周りに置く人間としては、正直に言えば「らしい」人選だと皮肉っぽく眺めていた。こういう視座を持つおれ自身の、人間的ないやらしさや卑怯さはそこに間違いなくある。

長渕が主題歌を歌った男たちの大和という映画をおれは映画館で見た。傷痍軍人になった中村獅童が、松葉杖を銃に見立てて、声を上げながら空に銃弾を撃ち続けようとするシーンがあった。おれは、そのシーンが単純に笑えるシーンだと思ったのだけど、流石に会場の空気を読まなければいけなかったので、必死に笑いをかみ殺していたのをよく覚えている。その後、カラオケに行けば、長渕のCLOSE YOUR EYESをネタとして消費しようと歌ったこともあるはずだ。10年以上時間が経っても、おれの根の部分は当時とそんなに変わっていないはずだ。しかし、おれの中にも、10年経って、愛国心という物には微妙な変化が起きている。おれは、おれなりに日本という国が、好きだ。杉田さんが書くように、日の丸という国旗を綺麗だとも思うようになった。しかし、長渕のライブにもしおれが赴いたとした、日の丸を振れるだろうか?多分振れないのだろう。富士山のオールナイトライブを目撃した杉田さんも、振れなかったはずだ。おれの場合はそこに深い意味は無くて、伊藤計劃が皇居に初詣に出かけたときに配られていた日の丸をなんとなく貰えなかった、と書いていたのと同様にメンタルの問題にすぎない。だけど、出来るだけ日の丸を振ることの無いまま暮らせていくことが出来たら素敵だな、と思う。繰り返して書くが、これは政治的信条では無く、メンタルの問題だ。振らなければ殴られるって言うことになれば、喜んで振るよおれは。金が貰えても振る。振ったら彼女出来るなら振る。損も得も無い状況で選べるなら、振らないでいた方がおれらしいかなってくらいの事だ。

長渕剛論の中で、杉田さんの一人称は基本的には「僕」なのだけど、富士山麓のライブ中に、突然一人称が「俺」に変わる。長渕剛という男のライヴパフォーマンスに振れて、アガっているときの杉田さんは、「俺」として長渕剛に向き合うことを選択をする。そして、長渕の愛国主義/郷土愛を「人間の暴力や攻撃性を、その極点で、絶対的な平和主義に転化させていくためのロマン的な歌であり、詩なのだ」と記している。ライブ中に嗚咽した事も記している。先ほどから長渕の歌を何度も聞いているけど、やはりおれにはよくわからない。好みの音楽ではない。好みの声では無い。ダサいと思う。キツいと思う。だけど、冷笑的な視線は少しだけやわらいでいて、笑ってしまいながらも、ちょっとだけサビの部分を口ずさんだりもする。そんな風に、この本を読んでおれは変わったわけだ。

杉田さんは、川崎に住んでいて、ヘイトデモのカウンター行動に少しだけ参加されたりもしている。声を上げず、ただ、横断幕を持ってぼうっと突っ立っているだけの参加で、実にらしいな、とおれは思う。その横断幕にはこんな言葉が書かれていた。

「いつまでも共に、この街で仲良く」強くて、優しくあろうとする、杉田さんらしい参加の仕方だ。おれは生涯、どちらの側としてもそういう場に身を置きたくないけど、どちらかに身を置かなければならなくなったら、杉田さんのようにただただぼうっと突っ立っていたい。どちら側かは書かないが。横断幕を手に持っているとき、杉田さんの心の中に長渕は流れていたんだろうか?きっと、流れていたんだろう。

男らしさ、優しさ、非暴力的な愛国心が可能か、多くの問いを長渕剛を通して一人の男が向き合い続けた本書の熱量を、おれもちゃんと受け止めたいと思う。読み殺せるかどうかは別として。

長渕に興味の無い、笑ってしまって彼を見つめるおれのようなあなたにこそ、読んで欲しい本です。