誰かの場所の複数

残念な感じです

ブコウスキーを読んで世界のすべてを、手に入れに行く。

 

ポスト・オフィス (幻冬舎アウトロー文庫)

ポスト・オフィス (幻冬舎アウトロー文庫)

 

 

 

おれはフリーターだが、ライトノベル作家を目指している、という事になっている。

小説を書き始めて、1年が経った。今まで投稿した作品は3作。一次予選落ちが2本、二次予選落ちが1本。半年間で3本を投稿したところで、父親が病気になり、死んで、筆が止まった。住むところが無くなったので、住宅ローンを組み、ねぐらを確保した。漸く今日から、次回の投稿作を書き始める。〆切りまで25日。恥ずかしいことを承知で書くが、これから書き上げる作品でデビューが出来る可能性は極めてゼロに近い。言い訳と捉えられても構わない。悪いのはロクにプロットも作らず、キャラクターを造形せず、取材を怠っているおれなのだから。

この状態で書き始めても、行き詰まるに決まっている。

面白い作品になるわけがない。

小説を書こうとする度に、同じ事を繰り返してしまう。1作目を書き上げた日から、全く変化していない。

おそらくおれは本当は「小説が書きたくない」人間なのだろう。

あと4ヶ月で、おれは35歳になる。

小説家を目指す、という事は就職活動と同義だとおれが通っている小説講座の先生は言う。実際にその通りだろう。即戦力が求められる年齢なので、飛び抜けて面白いモノが書けなければ、ライトノベル作家にはなれない。落ちるだけだ。

おれにはおれの人生を浪費する権利がある。誰に嗤われても、10本ライトノベルの賞レースに投稿すると決めたし、何があっても達成する。

実際おれは結構筆が早くて(笑い所)前回は二週間くらいで何も考えていないところから300枚を超える文字データを作ったから今回も間に合うだろう、と思っているし、そういう確信が出来たのでこのブログを書いている。

で、いきなり話しが変わる。おれが心から愛する、心臓をわしづかみにされた、チャールズ・ブコウスキーという小説家の「ポスト・オフィス」という作品について語ることが本エントリの主旨だ。ここに来るまで長すぎるが、まぁそういうもんだ。

 

東山彰良氏も書いているが(おれの本棚には『流』があるが、未だ読んでない)ブコウスキーを好き、と公言することはあんまりみっともいいものではない。

いい年こいて、アウトローに憧れて、世の中のシステムに反抗して、酒に溺れ、健康に気を遣わず、異性を欲の対象として眼差すことに躊躇しない、と宣言しているようなものなのだ。世界はバカばっかだと。

勿論現実のおれはタフな人間などでは無く、馘首に怯え、月の半分夜勤をこなし、家に帰ったらアニメを見て自慰にふけるだけのキモくてカネのないおっさんにすぎない。

酒もタバコも辞めた。パチンコは人生で1千万円は負けたと思うが、今は止まってる。

現実の暴力なんて怖くて仕方ないし、フィジカルに優れた高校生集団と同じ空間にいたら「絡まれたらどうしよう」と震えている。ずっとカーストの下に生きていたからし、日々の生活に疲れていて、イキる事もできない。

だが、それでも、ブコウスキーの「ポスト・オフィス」はおれの心を完璧に捉えた。おれが心から愛する作家はチャールズ・ブコウスキーだと、断言をする事が出来る。

本書「ポスト・オフィス」はブコウスキーの自伝的小説を多く出版している河出書房ではなく、幻冬舎から出版されている。何年間も古本屋で探したのだけど、一度もお見かけしたことが無い。

天邪鬼なので「Amazonやメルカリでは買いたくない」と思っていたのだけど、投稿作作業が進まずにイライラしていたのと、何かを書くための勇気が欲しくてAmazonで買った。

そして、読んだ。

最高だった。

本書が再版されないのはもしかしたら訳がマズいからなのか?と思っていたのだけど、明確に否定する。坂口緑の仕事は、中川五郎の名訳に匹敵する。英検三級に落ちたおれが何故翻訳の出来を判定できるのか? と問われたらそんなもん根拠ねえよとしか言えないのだが、まぁブコウスキーを愛しているので、愛で理解できる。

「ポスト・オフィス」は自伝的小説であり、ブコウスキーの処女長編だ。

ブコウスキーが自己を投影したヘンリー・チナスキーシリーズの時系列で言えば、「くそったれ! 少年時代」と「勝手に生きろ!」の続編に当たる。30代のチナスキーが専業作家の道を歩むまでの物語だ。先ず、本文に入るまでが最高である。ブコウスキーは物語の前に、こう記している。

 

この本はまったくのフィクションであり、誰にも捧げられない。

 

最高だ。これだけでおれは、本書を抱き締めてしまう。男のハグなどブコウスキーは求めていないが、それでも、「これがおれの言いたいことだ」と思う。

ブコウスキーは、この物語を「自分自身に向けても」捧げていない。

それでも、おれはこの物語は主語を大きくして言えば、「人類のため」にある小説なのだと思っている。

本書でチナスキーには子どもが出来る。チナスキーの子を孕んだ女性フェイは、彼にとって最良のパートナーとして描かれていない。世界平和の為の活動や、詩作に没頭するワナビー

そんなフェイが子どもを産んだ後、チナスキーはこう記す。

 

彼女は若くはなかった。世界を救えなかったと言えば、そうかもしれない。だが、世界を一歩よくしたことには間違いない。褒めたたえようじゃないか、フェイのことを。

 

おれはこの文章を読んで、声を上げて泣いた。なんて優しい言葉なんだろう。子どもがこの世界に生まれる、ということは、この世界にとって良いことなのだ。祝福されるべき事なのだ。素直に。絶対に。間違いなく。

 

更に自分の事を書けば、おれは世の中に適合しているとは言い難い。フリーターとしてしか働いたことが無いくせに、自分名義の借金が2350万円もある。ぶっちゃけ、おれが今まで稼いだカネと同額くらいだと思う。返せるアテはない。ライトノベルなんて書いているのは、見果てぬ夢を見ているだけなのかもしれない。これは現実への耐性が低い人間の逃避なのかもしれない。だいたい、このご時世、ライトノベルの世界で本を一冊出した新人が何百万も儲かるなんて事は殆ど無いってことくらいおれにだって想像が付く。おれはもうガキではないのだ。残念ながら。

だいたい、本なんてもう誰が金を出して読むって言うんだ? やらない言い訳は無限に出てくるし、人はおおよそ、何かをやらないための言い訳作りは天才的に上手い。おれはそっちの方面で言えば大家だ。おれは小説家志望者としてはライトノベルを志しているが、現実の友人知人からは理解されないことが多い。自伝的小説を好んでいることは知られているから、当然かもしれない。だけど、3年か4年の間、1冊も本が読めなくなったおれを救ったのは、可愛らしい女の子が表紙の、ライトノベルなのだった。

だからおれは、このジャンルに、これからの1年半を捧げる。35歳時点で書き上げた作品でどうにもならなかったら、一般のミステリに移行するが、それまではこのジャンルに挑むつもりだ。新人賞が、欲しい。本を出したい。

好きなモノと書きたいモノと書き上げられるモノは、全部違う。

おれの態度はブコウスキーが本書で眺める「大物ぶったフェイク野郎」と同じなのかもしれない。自分が何かモノを書けると勘違いしてるダサい人間。

だからなんだって言うんだ? 

おれは書くと決めた、だから、そうする。おれは小説を書くことによって、世界のすべてが、欲しいんだ。それ以外は何もいらない。

東山彰良は、ブコウスキーの小説を「悪いのは自分なのだと知っている者のための」小説だと書く。その言葉に、おれは共感する。

結局感動も、文章も、物語も、自分が動かなければ、手に入らないのだ。おれの出番はまだか? おれの手番はまだか? いつになったら、おれの時代になるんだ? 世界がおれに何もくれないなら、取りに行くだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

当然、このエントリは投稿作からの逃避である。やっべぇ書けねえし面白くない。どうしよ。まぁ書くけど。ちなみに何か文字大きいところがあるのはコピった所があるからです。